1 章 概 要 第 2 章 生 業 第 3 章 社 会 組 織 第 4 章 衣 食 住 第 5 章 人 の 一 生 第 6 章 年 中 行 事 第 7 章 信
第 1 節 衣
(1)日常の衣
[普段着]
普段着として、春はシャツやブラウスを、夏は木 綿素材の半袖や丸首の T シャツを着る。これに、特 に男性は木綿のズボンやモモヒキを合わせた。秋は春 同様にシャツやブラウスが多いが、寒い時はセーター などで調節する。冬はセーターの上にドンブクやズン ヌコと呼ばれる綿入半纏や、ムンズリやムズリッコと 呼ばれる裏地付きの綿が入っていない服が着用され る。古川など、どこかに出かける際にはよそ行き用の 着物を着た。また、1940 年代は着物で出歩く人たち もいた。当時の小学生も多くは着物やムンズリを着た が、スーツのような洋服を着ていた生徒もいた。セー ラー服やブラウス、セーター、カーディガンは古川の 町から購入することもあった。若者の間でセーターや 細身のパンツが普段着として流行したこともあった。
戦時中は、活動着やモンペを普段着として着用し た。モンペは農家に嫁ぐ女性はたいてい持たせられる ものであったが、一方でモンペではなくズボンを履い ている女性もいた。また子どものモンペはカスリ模様 の着物を再利用して作られることもあった。当時は和 服と洋服いずれも着ていたという話が聞かれ、着物は 小学生の頃に着ていたという話が聞かれる。また和服 を着ることはなく、洋服だけを着ていたという人もい る。
[夜着]
夏場は格子柄の浴衣や肌着などで過ごし、春や秋 には薄手の長袖を着た。さらに肌寒いときにはセー ターやメリヤスで調節し、冬にはネル生地でできた襦 袢を着た。夏以外は家の女性が作った綿が入っている 厚い浴衣を着る。
北谷地では、夜着として着る浴衣は「寝衣装」と 呼ばれていた。「寝衣装」は、夏は薄い木綿生地のもの、
冬は柄物の厚手の浴衣であった。ただし、浴衣は持っ ていたが着なかったという人や、夏は薄手の半袖、冬 は厚手の長袖で重ね着をしたという人もいる。
布団類は、手作りの敷布団・かけ布団や、こたつ にかけていた布団を寝るときにも使用するなどしてい た。また夏場には網目の蚊帳を吊って寝るという話も 聞かれた。
綿入りの寝具であるタンゼン(ドテラ)は、布団 の代わりに着用するほか、就寝時には布団の上にかけ、
就寝前や起きた際に羽織った。あたたかいため、現在 も冬場に使っている人もいる。
[下着]
1920 年頃までは、男性はフンドシを、女性はオコ シを下着として着用していた。それ以降は、男性はサ ルマタ(ステテコ)を着用し、女性はメリヤスと呼ば れる下着のほか、針仕事をよく行なうという人はサラ シを用いてオコシを作った。オコシはサラシを 2 枚 使用し、長い紐をつける。また、オコシだけでなくサ ラシで肌着を縫う人もいた。冬の下着は寒くないよう にネル生地を使うこともあった。
赤ん坊のオムツは着古した浴衣やサラシ、木綿の 布で自製した。オムツは布を 2 枚を重ねて作る。こ れを子どもが生まれる前に 30 個ほど作った人もいる。
ミシンで作ったという話も聞かれた。
[はきもの]
かつてはワラジや下駄を履いたが、1950 年代にな ると革靴が普及した。ある話者は 1980 年代は仙台市 図 4-1 タンゼン
図 4-2 オコシ
の一番町にあるスギモトや古川のスガワラという店で 靴を買い、壊れても捨てずに修理して長く履いたと記 憶している。現在のゴム長靴を短くしたようなゴムグ ツを履く人が大半であったが、革靴を履いていた人も いた。
草履は家の男性が作るものであり、よそ行き用の 草履もあったという。下駄も履いていて、鼻緒は家で 作ることもあった。
雪が降った際には長靴やジンベとよばれる藁靴、
雪下駄を履いた。小学生の長靴は配給制で、じゃんけ んでもらう人を決めたり、家の遠い人から配られた。
長靴の中に藁を敷くとあたたかいが、配給された長靴 は質の悪いものが多く、壊れて穴が空くと、藁が出て くることがあった。
[防寒着]
雪が降るほどの寒い日には、家の女性が自製した ドンブクやムンズリを着ることが多かった。ドンブク とは綿入れの半纏のことで、寒さをしのぐためには一 番の衣服だと言う人もいる。また、ドンブクとは言わ ずに綿を薄く入れた綿入れの半纏を着た人もいる。
マントも防寒着として着用された。ケープのよう な形で袖がなく、紐が付いており前で結べるように なっていた。
ムンズリは半纏のような形状で、木綿地である。
男性は縦じま模様で、女性はカスリ模様のものを着て いた。
[雨具]
雨具では、1960 年頃までミノを着用し、これに合 わせて後述するアミガサを被った。ミノには 2 種類 あり、日差しよけに適したゴザのような形のものと襟 巻きのようになって段になった分厚いものがある。前 者は雨具ではないが、後者のミノは段になっていてい ることで雨が染み込まず、加えて雪よけにもなるため 冬にも着る。また、ミノは、後に記述されるケラより も軽くて使いやすかった。ミノは家の男性の藁仕事と して作られた。ある家では、家にいるテマドリ分も合 わせて家の男性が作った。
1960 年代半ばには、ケラやゴムガッパを着るよう になった。ケラは、ゴザで使用するような細い植物を 編んで作られる。アミガサと一緒に着用した。
ゴムガッパは、ミノからビニール製のカッパ(ビ ニールガッパ)に移り変わる前に着用された。これを
作る際には、隣近所 3 戸ほどが集まって縫製をした。
ゴム製で水が入らないため、多くの人がこれを使った が、非常に重かったため動きづらく、活用された期間 は短かった。これ以降はビニールガッパが一般的に なっている。
また、和装の雨具として、雨コートと呼ばれるも のがあった。雨コートは着物のコートより丈が長く、
光沢のあるナイロン素材で防水加工がされている。
[子守の衣]
ネンネコやママケープと呼ばれるものを、子ども を背負う際に用いた。ネンネコは女性が自製するもの で、中に綿が入っているためにあたたかく、腰に紐を 巻いて安定させた。
[衣類の入手]
以前は大崎市古川や大崎市三本木の町場にある服 屋や行商から既製品を購入するか、生地を行商もしく は呉服店から入手して自製することが多かった。また 戦時中においては衣料切符と呼ばれる服をもらう切符 を呉服屋に持っていき服を入手していた。現在では 自製の衣服よりも量販店などで購入したものを着て いる。特に 1985(昭和 60)年以降は大崎市三本木 の町場にあった衣服の販売店がなくなったため、大崎 市古川の呉服店で購入するようになった。その中には 2010(平成 23)年頃まで開店していた店もある。
衣類の自製に関しては後述するとして、行商が来 ていた頃の衣服の入手は次の通りである。行商が来て いた時期や頻度、販売のあり方はブラクによって聞け る話が異なる。例えば戦前の上宿や下宿においては、
呉服屋が月に 1 度売りに来て花嫁衣装や喪服の仕立 てを行なっていたほか、生地の販売もしていた。購入 した生地で衣服を自製した。またこれにとは別に上宿 図 4-3 ネンネコ
では、ジャンパーなどの衣服を売り歩く行商が来てい た。このような行商は「町場の人」と呼ばれ、米と古 着を交換することもあった。
下沖では、衣服を販売する行商が来ていたが、そ の頻度は年に数回の時もあれば 1 か月に数回程度の ときもあり、どこから来ていたかは不明である。ズボ ンなどの既製品のほか、着物を作るための反物も販売 していた。また農閑期に染物屋に頼まれて副業的に行 商の反物屋を行なった人もいた。
北谷地では、戦時中は古着を売りに行商が来てい たという話が聞かれるほか、1960 年代頃までは月に 1 回程度の頻度で行商が来ていた。頻繁に来るわけで はないため、畳に広げられた衣類からまとめ買いした。
古川からも自転車で行商が来ていて、衣服や生地を購 入した。そのほかに、すだれや衣類の行商が自転車で 3、4 日に 1 回の頻度で来ていたという話もある。東 京オリンピックが開催された 1964(昭和 39)年の 頃から行商が来なくなり、現在の買い物の状態になっ たという話がある一方で、高度経済成長期にも大崎市 古川から、町場の洋服屋で品質が少し下がる背広等を 仕入れて、自転車で売っていた人がいたという話もあ る。
[髪型]
髪は床屋で切る。1949(昭和 24)年頃パーマを かける人もいた。戦後も特に髪型に決まりはなかった という。髪を結んだり、団子状にまとめる人もいた。
特別に決められた髪形はなかった。年配の女性は シャンプーの代わりにサイカチを使用した。サイカチ とはマメ科の一種で、さやを水につけて手で揉むと、
ぬめりと泡が出るので、これを石鹸の代わりに利用し た。
[化粧]
化粧は高校生から 20 歳前後の間にするようにな る。化粧水、乳液、ファンデーション、頬紅、口紅な どを揃える。中には水にレモンの皮とグリセリンを合 わせた手製の化粧水を作っている女性もいた。下沖で は婦人会で化粧水を販売していたこともあった。
(2)仕事の衣
普段着と作業着は、コデッコと呼ばれる農作業用 の手甲をはめるか否か程度の違いでほとんど変わらな
いという人もいるが、着分ける人も多い。農作業時に はモモヒキを穿いたり、汚れてもよい普段着を転用す ることもある。また、作業着で家の中を汚さらないよ うに、作業の前後に作業場で着替える。
戦前から既製品が普及する時期は、男性は木綿の ムジリッコ(ムズリッコ・ムンズリ)や、女性が縫っ たカセギシャツを着用し、女性は男性と同じくムジ リッコのほか、ブラウスやカスリを着た。また、下衣 として男性は木綿生地のモモヒキ、女性は木綿生地や カスリ模様のモンペを合わせた。さらに女性はこれに 割烹着や前掛けを重ねることもあった。
既製品が普及してからは、服屋か雑貨屋で購入す ることが多く、農機具を買った際に農機具メーカーか らツナギをもらったという人もいる。
夏など暑い時期に作業する際には自製のモモヒキ、
冬には購入したズボンを履いた。編み笠を被ったこと もあった。またセナカアテは、薪や野菜などや重いも のを運ぶ際に着用された。
農作業着は季節、作業内容に合わせてさまざまな ものが着用されており、また時代によっても異なって いるが、以下には特に田仕事の作業着における概要を 述べた上でそれぞれの衣服について紹介する。
[田仕事の作業着]
田仕事のときは、男性はムズリッコ、カセギシャ ツ、紺のモモヒキ等を身に付け、女性はハダッコにム ズリッコ、オクミ、ユキバカマなどを身に付けていた が、現在は、市販の作業服やジャージを着用すること が多い。頭には日笠やアミガサを被るほか、手ぬぐい をハチマキにしたり、女性はアネサンカブリでホッカ ムリをした。手にはコデッコと呼ぶ手甲をはめ、履き 物は地下足袋や草履であった。女性は足袋を履くこと もあったが、中には裸足で作業をする人もいた。現在 は足首までの長さの靴やゴム長靴が主流となった。
[カセギシャツ]
主に男性が着用する。女性が自製したものを指す こともあれば、農作業時に着用する着古したシャツな どをカセギシャツと称する場合もある。
[ハダッコ]
カスリ模様の肌着である。ネル生地やメリヤス生 地が多く、農作業時には特に女性がムジリッコの中に 着用した。